大仙市立 西仙北中学校
学校通信
 平成24年10月4日  No.23

立志祭 間近  
 10月7日(日)の「立志祭」が間近に迫りました。今週に入ってから,「大いなる秋田」の全校合唱練習,「NISHISENソーラン」の全体練習,そして各部門の準備等,毎日遅い時間まで,生徒会執行部を中心に,全校生徒が奮闘しています。
 「立志祭」当日の日程(予定)をお知らせします。たくさんの皆様の来校をお待ちしております。
 
☆ステージ発表 9時15分〜15時20分
 午前の部
 ○オープニング
 ○三味線演奏,NISHISENソーラン1・2・3年
 ○英語弁論
 ○理科研究発表会
 ○刈和野大綱太鼓
 ○私の主張
 ○P&C部発表
 ○吹奏楽演奏@ 
 午後の部
 ○校長あいさつ
 ○吹奏楽演奏A
 ○3年劇
 ○大いなる秋田
 ○生徒会長あいさつ
 ※ 昼休み 11:50〜13:00(予定)
 
☆展示 
 ○部活動展・・・第一理科室
 ○教科展示・・・多目的ホール,第二理科室
 ○学級イラストパネル展・・・多目的ホール
☆食堂,喫茶,屋台
 ○食堂・・・1A,1B,1C,美術室
  (開設時間 10:00〜13:30)
 ○食券販売・・・水飲み場テラス
 ○屋台・・・語らいの広場(チョコバナナ・輪投げ)
(開設時間 10:00〜14:00)
☆その他
 ○チャリティーバザー・・・3A教室 12時〜
 ○生徒会企画展・・・F,G組
 ○P&C展・・・2A
 
10月3日 定例朝集会から 
 
 
 テーマは前期の反省と後期への抱負でした。
様子をお伝えします。
□3A 太田夏花さん
 私が前期の中でだめだったところは,授業中でわからなかったことが多かったので,後期にはもっとわかるように頑張りたいです。
□3B 戸嶋雄太朗さん
 僕が前期に頑張ったことは部活動です。夏休み中の部活動を頑張ってこの前の理科研究会では優秀賞を取ることができました。後期から勉強に集中して今よりもよい成績を取れるよう,受験に向かって頑張っていきたいです。
□2A 鈴木優喜さん
 前期を振り返って,野球の新人戦で3位という結果に終わってしまいました。なので,来年の夏の郡総体で優勝できるように,冬の練習を頑張っていきたいです。
□2B 佐々木蒼生さん
 私が前期で頑張ったことは,勉強と部活です。勉強ではテストの点をなるべく上げることを頑張りました。部活ではパソコン検定やコンクール(統計コンクール)などを頑張りました。後期は,勉強と部活を今より両立させて,てきぱき動けるようにしたいです。
□1A 伊藤優李さん
 僕が前期に頑張ったことは,国語の漢字です。国語の漢字ではスキル(ワークブック)に書くことを頑張りました。後期でも頑張りたいです。
□1B 後藤爽華さん
 私が前期頑張ったことは,部活と勉強の両立です。部活では前よりも声が出せるようになりました。勉強では予習復習をしっかりやることができました。後期でも頑張りたいです。
□1C 嵯峨俊樹さん
 僕が前期で頑張ったことは,部活です。卓球部は人数が少なかったため,団体戦では,試合に出させてもらいましたが,個人的には,あまりいい成績を残せなかったので,後期では頑張りたいです。 
 全体講評は生徒会執行部の佐藤和樹さんでした。
「今日の定例集会で,前期の定例集会は終わりです。後期からは,1・2年生が主体となって学校を進めていくことになります。必要なことがあったら,3年生がサポートするので,失敗を恐れずに頑張っていってください。また,3年生は受験に向けて勉強を頑張っていく時期になります。小さな目標でもいいので,その目標を達成するよう頑張ろうという気持ちで,一つ一つのことに真剣に取り組んでいってください。また,立志祭の期間が残り少なくなりました。特に,あいさつはお客様の印象にとても関わってくることなので,学校生活から元気なあいさつを心がけていきましょう。」
 
 この後,立志祭へ向けての抱負を突撃インタビューしました。7人の方が答えました。
□1A 佐々木玲奈さん
 立志祭ではウェイトレスの係なので,お客様に声かけを頑張りたいです。
□3A 斎藤匠さん
 部門は装飾で,イラストを頑張っています。当日は,残飯処理なのでしっかりやりたいです。
□2B 石川亜衣梨さん
 部門は装飾制作です。同じ部門の人といい作品を作って,賞を取りたいです。
□2B 大沼拓也さん
 部門は企画部門です。西仙北中初めての学校祭なので,ソーランや合唱を失敗を恐れないように頑張りたいです。
□3B 進藤愛可さん
 部門はステージ部門です。3年生最後の学校祭,そして西仙北中学校最初の学校祭なので成功させたいです。
□1C 斎藤藍実さん
 部門は装飾制作部門です。今はC組の人と一緒にイラストを頑張っているので,賞をもらえるよう,もっと一生懸命頑張りたいです。
□3A 戸島璃来さん
 所属している部門は総務部門です。西仙北中学校初めての立志祭なので,成功に終わりたいと思っているので,皆さん頑張りましょう。
 
 集会が終わってから,生活委員長の熊谷勇地さんから,衣替えの時期でもあるが名札着用について,呼びかけがありました。
 
非核平和都市宣言事業 市民平和の集い
 
 9月27日、大仙市大曲市民会館で、標記の会が開催されました。7月下旬に、本校から3名(進藤愛可さん,進藤南さん,田口咲月さん)、大曲中から3名の計6名が、非核平和レポーターとして、広島原爆記念館を訪問し、その中から自分たちの視点でプレゼンしました。本校から1年生全員が参加しました。
 会では,はじめに、趣旨説明が大仙市長から述べられました。
 次はいよいよレポート報告です。最初は、大曲中学校の3名が、戦中時代の衣食住について調べた報告でした。
 本校3名のレポーターは,原爆投下に真正面から取り組み、核の恐ろしさについて紹介してくれました。
 中学生の発表は、彼らなりの視点からとても新鮮な響きでした。
 その後,本日のメインでもある長崎県からお出でになった被爆を体験している深堀好敏氏による講演「写真を通して原爆体験を語る」でした。氏の発表の中で一番驚いたのは、原爆が昭和20年に広島、長崎に落とされたのにもかかわらず、昭和27年のサンフランシスコ条約まで、日本では「新型爆弾」であり「原子爆弾」という言葉すら発表されずに、その被害も全く日本全国に周知されなかったという点です。昭和27年にアサヒグラフに、原爆の様子が全国に初めて紹介されてから、日本では、原爆の恐ろしさが初めて全国に知らされた、ということです。そして、その後の核への脅威が正しく日本中に伝えられていれば、原子炉などというエネルギー代替ということにならなかったのではないか、とも述べられました。
 最後は、声のグループ「ひいらぎの会」による絵本の朗読でした。
 最初は、「おもいでのリュック」。ソ連からお母さんと娘がリュックを背負って戦後帰国するというお話でした。
 次は、「金のひしゃく」です。
 このお話は、戦災孤児が、中国のある学校に避難しているのですが、日に日に弱っていき、最後は日本に帰ることなくそこで死んでしまうという悲しい物語です。
 
 戦災孤児は4名になりました。2週間に一回だけ、彼らに食料を与えてくれるおじさんが彼らの住んでいる学校の側にやってきます。ある日、スープの中に挽肉(ひきにく)が入った食事が提供されました。日頃、ほとんど美味しいものを口にしていない4人の少年たちは、この食事に感動します。そして、その食事を作ってくれたおじさんに、なんとか感謝の気持ちを表したいと考えます。でも、おじさんも、自分たちも食料不足で栄養失調やいろいろな病気で、いつ死ぬのか、決して日本に帰ることは出来ない、と自覚をしています。
 また、2週間が過ぎました。調理のおじさんは、再び、日本食の豆腐の入ったみそ汁とご飯をつくってその学校に来ました。並んだ人たちの中に、その4人の戦災孤児はいません。どうしたのかな、きっと来ると思って、その子たちの分を残しておいたおじさんでしたが、全員に配給した後になっても誰も来ません。おかしいなあ、と思っているところへ、ある男が一人やってきました。
 「これは、ある戦災孤児から頼まれた紙切れだ。誰も子どもたちのところへは行きたがらなかった。なぜなら、いつも糞(ふん)まみれになって、汚いしくさいし、それで、自分がその子のところへ行ったら、その子が『調理のおじさんに、この紙を渡して下さい』と泣いて頼むので、今、私は、その紙をあなたに渡す。私の責任はこれで果たした。最後に付け加えておくと、その子は、この紙を私に渡してから2時間後になくなった。」
 おじさんは、その糞まみれになった紙切れを読んだ。
「おじさん、僕たちに美味しい挽肉の入ったごちそうを作ってくれてありがとう。本当に美味しかった。僕たちは感謝の気持ちを表したくてどうすればいいか、みんなで話し合いました。そうしたら、最後まで生き残った人がおじさんに手紙を書くということになりました。他の3人はもう死にました。それで僕が書いています。でも、僕もふらふらで、手に力が入りません。おじさん本当にありがとう。僕たちはおじさんに『金のひしゃく』をあげます。なぜなら、おじさんの作ってくれた料理をすくったひしゃくは『金のひしゃく』だからです。金のひしゃくは、夜、空を見上げたときに、7つの星が見えたら、それが僕たちの金のひしゃくです。」
 おじさんは、その手紙を読んで大きな涙をこぼしました。そして夜になって大空をみました。7つの星が輝いていました。「君たちの金のひしゃくは見えるよ。辛かっただろうね、手が震えて、身体が弱って。」おじさんの目には、大きな大きな涙がぼろぼろ落ちていました。(終わり)
(印象で書いていますので、違うところもあったかもしれませんがご了承下さい。)
 
 私の座席の周囲からはすすり泣く音が聞こえてきました。
 いつしか、昭和20年に起こったことは、風化の一途をたどります。でも、中学生や小学生が新しい目で引き継いでくれることで、忘れてはならないこととして世界に残ることと思います。
 3人の女子の皆さん、レポート報告ありがとうございました。