大仙市立西仙北東中学校
 学校通信
   2011.3.18 No.42

  
 
東北関東大震災
 
 3月11日,授業が終わり,さあこれから部活動の始まりだ,と各部の生徒が体育館やパソコンルーム,理科室,音楽室に出かけ活動をし始めたその矢先に,大地震が東北を襲い,いつもの地震よりもかなり長い時間,本校の校舎を揺らしました。幸い,けが人や校舎破損は無かったのですが,停電がおきて,生徒たちは活動を途中で終え,3時半のバス,もしくは保護者の迎えの車で帰途につきました。その後は,固定電話や携帯電話が通じにくくなり,公衆電話の威力に脱帽しました。職員室には,暖房も無くなったので,野球部の部室にあった簡易ストーブを熊谷先生に持ってきていただき暖をとることができました。
 停電が復旧したのは,3月12日午後8時過ぎでした。
 現在も余震が続いておりますが,宮城県,岩手県,福島県の被害は相当なもので,何万人という方々が行方不明もしくは死亡という最悪の事態になりそうです。ご冥福をお祈りいたします。
 
車いすを寄贈
 
 
 夏に空き瓶回収を生徒会と保護者のご協力を得て行いました。その収益金で,JRC委員会が,車いす2台を「特別養護老人ホームウォームハート」に寄贈することになりました。この車いすは,写真のように,肘当て(ひじあて)が,簡単にはずれ,車いすから普通のいすへの移動が大変楽であるという優れたものです。実際に座ってみると,座り心地もよく,機能性にあふれていました。贈呈の日は,春休みになりそうです。JRC委員長の伊藤健太さんには,贈呈の日に,この2台のいすとともに,温かい言葉もお願いしたいものです。
 
卒業式 式辞から
 
 3月10日午前10時から,予定されたご来賓の皆様,地域の皆様,そして卒業生の保護者の皆様をお迎えし,平成22年度の卒業証書授与式を行うことができました。
若干の雪がちらつきましたが,その後の大震災を考えると,実によい日に卒業式ができたと,職員一同感慨に浸っているところであります。卒業生64名は,自分たちの3年間を振り返りながらも,明日への希望を胸に旅立ちました。
 式辞で,ニーチェの言葉をはなむけに贈りましたので転載いたします。
 
「超訳 ニーチェの言葉」(白取 春彦)から
001
初めの一歩は自分への尊敬から
 
 自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。
 そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
 自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
 そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
 それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。    『力ヘの意志』
218
絶えず進んでいく
 「どこから来たか」ではなく、「どこへ行くか」が最も重要で価値あることだ。栄誉は、その点から与えられる。
 どんな将来を目指しているのか。今を越えて、どこまで高くへ行こうとするのか。どの道を切り拓き、何を創造していこうとするのか。
 過去にしがみついたり、下にいる人間と見比べて自分をほめたりするな。夢を楽しそうに語るだけで何もしなかったり、そこそこの現状に満足してとどまったりするな。
 絶えず進め。より遠くへ。より高みを目指せ。                   『ツァラトゥストラはかく語りき』
 
 
修 了 式
 
 3月18日に今年度の修了式を1・2年生で行いました。
 本校は,「いじめ撲滅運動」を春から一年間かけて展開しております。2階へ続く廊下の壁面には,「いじめ絶対ダメ」の言葉や各学級のポスターが掲示されています。この「いじめ撲滅運動」の一環として,絵本「わたしのいもうと」を紹介しましたので,転載します。
 
わたしのいもうと
  松谷みよ子 文・味戸ケイコ 絵
 
この子は
わたしの いもうと
むこうを むいたまま
ふりむいて くれないのです
いもうとのはなし
きいてください
 
いまから
七年まえ
わたしたちは この町に
ひっこしてきました
トラックに
のせてもらって
ふざけたり
はしゃいだり
アイスキャンディを なめたりしながら
いもうとは 小学校四年生でした
 
けれど てんこうした学校で
あの おそろしい いじめが
はじまりました
ことばが おかしいと わらわれ
とびばこが できないと いじめられ
クラスの はじさらしと ののしられ
 
くさい ぶたと いわれ
−ちっとも きたない子じゃないのに
いもうとが きゅうしょくを くばると
うけとってくれないのです・・・・
とうとう だれひとり
口をきいてくれなくなりました
ひと月たち
ふた月たち
えんそくに いったときも
いもうとは ひとりぼっちでした
やがて いもうとは
学校へ いかなくなりました
 
ごはんも たべず
口も きかず
いもうとは だまって どこかをみつめ
おいしゃさんの手も ふりはらうのです
でも そのとき
いもうとの からだに
つねられた あざが たくさんあるのが
わかったのです
 
いもうとは やせおとろえ
このままでは いのちがもたないと
いわれました
かあさんが ひっしで
かたくむすんだ くちびるに
スープを ながしこみ
だきしめて だきしめて
いっしょに ねむり
子もりうたを うたって
 
ようやく いもうとは
いのちを とりとめました
そして
まい日が ゆっくりと ながれ
 
いじめた子たちは
中学生になって
セーラーふくで かよいます
ふざけっこしながら
かばんを ふりまわしながら
 
でもいもうとは
ずうっと へやにとじこもって
本も よみません
レコードも ききません
だまって どこかを 見ているのです
ふりむいても くれないのです
 
そしてまた としつきがたち
いもうとを いじめた子たちは
高校生
まどのそとを とおっていきます
わらいながら
おしゃべりしながら・・・・・・
 
このごろ
いもうとは おりがみを
おるようになりました
あかいつる あおいつる しろいつる
つるに うずまって
でも やっぱり ふりむいては
くれないのです
口を きいてくれないのです
 
かあさんは なきながら
となりのへやで
つるを おります
つるを おっていると
あの子のこころが
わかるような きがするの・・・・・
 
ああ わたしの家は つるの家
わたしは のはらをあるきます
くさはらに すわると
いつのまにか わたしも
つるを おっているのです
 
ある日 いもうとは
ひっそりと しにました
つるを てのひらにすくって
花といっしょに いれました
 
いもうとのはなしは
これだけです
 
<手紙>
わたしを いじめたひとたちは 
もう わたしを
わすれて しまったでしょうね
 
あそびたかったのに
べんきょうしたかったのに
○あとがき       松谷 みよ子
 数年前,一通の手紙がきた。
 わたしのいもうとの話を聞いてください,という手紙であった。いじめにあい,登校を拒否し,心を閉ざしてしまった子。最後の,『わたしをいじめたひとたちは,もう私をわすれてしまったでしょうね』という言葉まできたとき,わたしはこみあげてくるものをとどめることができなかった。
 ある時期,わたしもいじめにあっている。そのときの辛さは,地獄のそこをはうようであった。イソップのカエルのように,「おねがいだから石を投げないで。あなたたちには遊びでも,私にはいのちの問題だから」と,なんど心でさけんだことだろう。
 手紙はさらにつづく。自分より弱いものをいじめる。自分とおなじでないものを許さない。そうした差別こそが戦争へつながるのではないでしょうか。
 そうですとも,そうなのよとわたしは,手を握りたい心持ちであった。おなじ日本人のなかでの差別は,他民族への差別とかさなり,人間の尊厳をふみにじっていく。アウシュビッツも,太平洋戦争でわたしたちが犯した残虐行為も,ここにつながる。そしておそろしいのは,おおかたの人が自分でも知らないうちに,加害者になっている,またはなり得ることではなかろうか。
 この一冊をあえて,<絵本・平和のために>に加えていただいた偕成社に感謝し,やわらかな筆に怒りと悲しみをこめて絵本化してくださった,味戸ケイコさんへ,心から御礼を申し述べて筆を擱く。
 
 この絵本は,5年前に在職した中学校の校長先生から紹介されました。その後,私は小学校に3年間勤務したのですが,最初に読んだとき,こんな悲しい話があるのか,と思ってしまいました。小学生から高校生までのお話を絵本にしたものですから,小学生はもちろんのこと,中学生でも十分に内容が耐えうるものになっています。去年,小学校で読み聞かせをしたときに,作者の松谷さんと同様に,途中で涙が出て,読むことができなくなってしまいました。6年生の担任の先生に代わって読んでもらいました。
 松谷さんもお話しされているように,いじめは,加害者と被害者では,考えが全く異なります。松谷さんは,それが人間の差別的な考え方から来ていると分析されています。私たちの何気ない一言が他人を傷つけてしまうことを私たちは常に考えて行動しなければならないということを教えてくれます。
 本校で展開されている「いじめ撲滅運動」はたとえいじめが無くても,人としての在り方はどうあるべきかをテーマに,これからも継続していきます。  
 
校歌はどうやってできたか
 
 開校17年目を終えようとしている今,中村千榮子作詞,石井歓作曲の校歌は,どうやって作られたのでしょうか。現在,西仙北西中学校に在職の加藤修先生と当時の教育長であった小山多一先生に当時のことを聞いてみました。
 平成6年統合の本校は,当時西仙北町で,当時の町長及び助役さんが相談して「大いなる秋田」(昭和45年)をつくるときに尽力された伊藤浩太郎先生に仲介を依頼したところ石井歓先生と中村千榮子先生を紹介されたようです。
 加藤先生と当時教育委員会に勤務していた佐藤主憲さんが,春のある日に,石井歓先生の居住する神奈川県小田原まで出向いたそうです。大曲始発の急行に乗り,日帰りで戻ってきました。当時は,まだ秋田新幹線が開通する前ですから,かなり長時間にわたる旅程だったと思います。
 加藤先生は,箱根のふもとにある景色が素晴らしい小田原の石井歓先生のスタジオで,石井先生から楽譜を渡され,その場で歌ってみてください,とお願いされました。加藤先生が歌ったところ,曲のおさまり具合が悪いので,最後の「いつの日も」の前に「友と手をとり」という一小節があったそうですが,それをカットすることにしました。「友と手をとり」というのは最初,副題として付いていました。中村千榮子先生が作詞者ですので,省くことの了承を得たそうです。理由は,カットすることによって曲がおさまる,校歌は短い方がいい,そして,シンプルな校歌だと歌われる機会も多い,ということでした。
 石井歓先生と中村千榮子先生は,西仙北町を訪問し,協和の唐松温泉に宿泊しました。そのときに,歓迎会を町が主催しました。小山教育長も臨席し,石井先生とお話を交わしたところ,「この校歌は日本一の校歌だ」と強い口調でお話されたことが印象的だったそうです。
 当時の刈和野中学校と土川中学校の生徒は,加藤先生によると,とても意欲があり,歌う気持ちが満々だったそうです。そのため,余り苦労せずに校歌を覚えることができて披露した,ということでした。 
 この日本一の校歌を4月から,声高らかに誇りをもって歌っていきたいと思います。
 次回は,校章についてその成り立ちを紹介します。
 
一年間ありがとうございました
 
 学校通信を一年間読んでいただき,誠にありがとうございました。ほぼ一週間に一回のペースで発行しました。
 記事としては,生徒の活動が主で,時として,私の考えなども織り交ぜました。
 来年度も,生徒がどのような学校生活を送っているのかを中心に,皆さんにお伝えしたいと思いますので,よろしくお願いいたします。
 
春やすみ行事 3月〜4月
 
29(火)離任式
30(水)新入生一日登校日(午後1時半)
03(日)春休み終わり
04(月)午後1時登校完了,新任式・始業式
 
※ 全日本少年春季野球大会(静岡)は延期になりました。また,埼玉での全日本バドミントン大会も中止となりました