大仙市立西仙北東中学校
 学校通信
   2010.7.7 No.14

              
  早朝草刈り  

 7月4日日曜日午前6時半からの草刈り作業には、多数の保護者の皆様のご協力により、広い本校の敷地を埋めていた草が、気持ちよく刈り取られました。誠にありがとうございました。

 草刈り機持参で奮闘されたお父様たちは全部で56名。軽トラック、大トラックが各8台ずつが休むことなく稼働しました。草刈りの現場では、お父様たちが刈った草をお母さんたちが熊手でかき集めました。そのかき集めた草を生徒たちがトラックに積みました。早朝とはいえ、暑さが増し、汗だくになって頑張る生徒の姿がありました。

 また、プランターを担当してくれた生徒もおり、そのおかげで校舎を囲む道路脇に、花が飾られました。

 草刈りの前には、生徒による窓ふき清掃も行われ、職員室、生徒玄関、各教室の窓等、清々しい気持ちの良い窓に変身しました。

  7時50分に駐車場に全員が集合し、8時過ぎには終わることができました。全校生徒並びに保護者の皆様の多大なる協力に重ねて感謝申し上げます。
  
  PTA講演会

 草刈り作業の後は、生徒と保護者の皆様一緒にPTA講演会を行いました。講師は秋田県立西仙北高等学校長 茂木 優 氏です。演題は「すべての出会いが高校時代」です。
 はじめに、私が茂木校長先生を紹介しました。

 講師の茂木校長先生を紹介します。

 茂木校長先生は昭和25年生まれ、今年還暦を迎えられます。大仙市協和の出身で、秋田商業高校に進学され、その後国士舘大学に進まれました。秋田商業高校に入学され、先輩に誘われるままレスリング部の門をくぐったそうです。入部してから体が整い、3年の群馬総体で、82kg級、後に名プロレスラー・長州力になる吉田光雄さんを、3回戦で延長の末の体重判定という接戦で下し、全国初制覇。続く長崎国体も優勝し、2冠を達成しました。

 国士舘大学でも活躍し、卒業後、秋田に戻られました。母校の秋田商業高校の教員になられ、後進の育成に励む傍ら、先生ご自身も五輪出場を目指しました。1974、75年と全日本選手権を連覇し、76年、26歳でモントリオール五輪への切符をつかみました。4回戦で当時のソ連の世界王者に敗れ、8位入賞でした。その後も長くマットに立ったそうです。

 茂木校長先生は、昨年度から秋田県立西仙北高等学校の校長先生として、日々ご奮闘されています。昨年赴任早々、校長先生自ら企業訪問をして、生徒の就職のためにご尽力されている姿は、ニュースになりました。今日は、先生から講演していただけることをとても幸せに思います。茂木校長先生、それではよろしくお願いいたします。

(講演要旨)
 皆さんはどんな夢をもっていますか?夢をもっている人?「夢をもつ」ということは、その夢の実現のために勉強をしなければならないのです。もし、夢をもっていない人がいたら、夢をもって欲しいです。夢の実現に向かって頑張ることがとても大切です。


 私は、協和の稲沢、落合というところで生まれました。回りは全部山。小さい頃は、自然を生かした遊びでした。野球を一生懸命やり、将来はプロ野球の選手になりたかったです。高校でも野球をやりたくて、親に秋田商業高校へ進学すると伝えました。当時あまり勉強していなかったので、受験をしたら、見事に落ちました。親は、私立高校を薦めてくれましたが、もう一年頑張ってもう一度受験すると親に言いました。ちょうど受験の切り替わりの時期で、前年は9教科の受験でしたが2年目は、3教科の受験で秋田商業高校に合格しました。

 昭和42年の入学当時、野球部の監督は小さな大投手といわれた今川敬三監督でした。今川監督に「野球部に入りたいのですが。」と言いに行ったら、「君はどこの中学校出身か?」と聞かれ、「朝日中学校です。(現在の協和中学校。)」と言いました。「ほう」とここまでは良かったのですが、その後に「朝日中学校大盛(たいせい)分校です。」と答えたら「何?大盛分校?そんな学校は聞いたことがないから、入部させるわけにはいかない。」と言われ、野球部をあきらめました。その後、とにかく運動部に入ろうとぶらぶら学校の廊下を歩いているときに、自分よりも小さい先輩が「茂木、お前、部活動、何に入るのか決めたか?」と話しかけてきました。私は「まだ決めていません。」と答えました。そうしたら、その先輩が私を小汚い道場に連れて行ってくれました。「ここがレスリング部の道場だ。レスリングはおもしろいぞ〜。」ということでレスリング部に入部しました。

 入部してから一週間、それはそれは楽しい部活動でした。ところが、一週間が過ぎると、突然、腕立て100回、腹筋100回、背筋100回と来る日も来る日も同じ苦しい練習の連続でした。これにはさすがに私も参ってしまって、親に手紙を書きました。私は、親は苦しければ他の部で頑張りなさい、と言って来るかと思っていましたが、「わかった。部は止めてもいい。学校も一緒に止めて働け。」と言われたのです。これには驚き、部を仕方なく続けました。そして、大会にも出ましたが、結果はさんざんでした。1年生の時は、65kg級に出場し、2年生は73kg級に出場しました。

 だらだらやっていたレスリングでしたが転機が訪れたのは、2年生の大会で、当時附属高校のの青木という選手と戦い3位決定戦で勝利したときです。このとき初めて賞状をもらいました。今でもその賞状は私の実家の座敷に飾ってあります。これ以来私は学校をサボることもなくなり、それこそ隠れて練習しました。

 2年生の73kg級では秋田県で1位になりました。昭和43年の広島インターハイでは、準優勝、国体は福井県で3位になりました。



 3年生になり、1・2年生部員130人くらいのキャプテンを拝命しました。昭和44年群馬インターハイのときに、お世話になった宿が、県の義務教育課長堀越さんという方の家でした。大会当日、どうしたわけか、それまでの食欲がなく、朝から何も食べないで部屋にいると堀越さんが「茂木君、これを飲めばきっと大丈夫だ。」と赤まむしドリンクを2本私にくれたのです。私は、朝食をとらずに、そのドリンクをすぐに飲んで大会に出かけました。お腹が空いているにもかかわらず、試合は順調に進み、決勝は吉田光雄(後のプロレスラー長州力です。)とでした。3ラウンド戦い同点、その後延長で更に2ラウンド戦いまたも同点。最後は、どちらの体重が軽いか、ということで勝負が決まるのがレスリングのルールです。くじ引きで私が最初に計量台に乗りました。次に、吉田が乗ったら、計量の針が上に上がりました。今度は、吉田が最初に乗りました。次に私が乗りましたが、針は動きませんでした。結局、私の体重が吉田より軽いということで優勝しました。もし、朝にご飯を満腹食べていたら結果は逆だったのかもしれません。神様が私に味方してくれたのだとそのとき思いました。

 私は、高校を卒業したら就職して銀行員をやりたいと思っていました。そこで三菱銀行を受験しました。ところが私には色覚異常があり、当時、色覚検査を合格しないと就職ができませんでした。案の定、三菱銀行は落ちました。しかし、担任の先生が秋田県の地元銀行に働きかけてくれ、その銀行に合格しました。その頃、群馬でお世話になった堀越さんから長い手紙が来て、大学で好きなレスリングを続けた方がいいと書かれてありました。そうこうしているうちに、アメリカ遠征の話が来ました。私は、アメリカに行けるのだと大喜びしました。でも、通知書を見たら「大学進学をする者」という条件が付いていました。そこで、就職が決まっていたのにもかかわらず、担任の先生に「大学進学したいのですが。」と相談をかけました。担任は「何〜?お前は、私が大学進学をあれほど勧めたのにことわったじゃないか。親を連れてこい!」ど激怒されました。数日後、親共々、担任の先生に叱られ、大学受験を許されました。経済状況が苦しい私の家では、大学入学の条件として入学金免除、寮費免除、食費免除の大学にしました。小遣いも支給するとありましたが、それは断りました。それからアメリカのワシントン州を1ヶ月かけて旅行してきました。当時、1ドル360円の時代ですから、どれだけお金がかかる旅行だったかということがわかります。

 高校卒業して、秋田商業高校に講師として採用されました。その後正式採用され、27年間勤務しました。秋田わか杉国体のため強化委員として7年間勤務し、再び秋田商業高校に教頭として戻り、翌年西仙北高校の校長に赴任しました。

 人生の中で、一度や二度の失敗はすぐ戻せます。そのためには今何ができるか、何をすべきか、考えて欲しいです。皆さんが生まれてきたのはお父さんとお母さんのおかげですが、一人一人が奇跡なのです。縁を大事に努力することが運につながるのです。

 この後、たくさんの生徒から質疑応答がありました。最後に、佐藤修平さんから次の感謝の言葉と戸島果純さんから花束が贈られました。



 「今日の講演ありがとうございました。私もこれからの高校生活で時間を有効に使い、両親に感謝しながら頑張りたいと思います。」

 非常に心にしみる貴重な体験談、茂木校長先生ありがとうございました。